2024年06月17日
【造船海運コラム】 #2 山下亀三郎~宇和島から日本の海運王に~
■NHK大河ドラマ「青天を衝け」
2020年に吉沢亮さん主演で人気を博したNHK大河ドラマ「青天を衝け」。ご覧になった方も多いのではないでしょうか。その主人公、渋沢栄一(しぶさわえいいち)※は「日本資本主義の父」とも言われるほどの偉人ですが、その渋沢栄一から、
「人物を見るのに一時の印象や気まぐれ・直感というものに頼らず、すべて独自の観察法にちゃんとした筋道が通っている。こっちの人はこれこれこうだからこんな長所がある、そっちの人はそれそれそうだからこんな特徴があると、理路整然と人物を評価する非凡な能力がある。」
「自分が出世したいと思っても他人を立ててあげ、自分が成功したいと思っても他人を優先してあげるような心がけのある人物」
とまで評価された宇和島出身の人間がいます。皆さんは誰だかおわかりでしょうか?
その人物の名は、山下亀三郎(やましたかめさぶろう)。
明治から昭和にかけて、世界有数の不定期船オペレーター※として日本海運の成長に貢献した人物です。
※渋沢栄一:1840年、埼玉県出身。徳川最後の将軍となる一橋慶喜に仕え、一橋家の財政を再建。パリ万国博覧会やヨーロッパ各地の実情を視察後に明治政府で登用され大蔵省で活躍。退官後は実業家として現在のみずほ銀行やりそな銀行等を創業。さらにはIHI・東京海上日動・JR・東京電力・キリン・清水建設・川崎重工業など現代に連なる名だたる企業500社あまりの立ち上げを支援。日本初の証券取引所を開設した。
※不定期船:決まった航路、決まった荷物を定期的に運航する船を定期船という一方、貨物の需要と供給に応じてどこからどこまで何を運ぶか柔軟に対応するのが不定期船。
※オペレーター:貨物を運びたい荷主と、船を貸したい船主をつなぎ、船の運航を請け負って貨物を安全・確実に輸送する代理業。船主を兼ねる場合もある。運航者・傭船者とも言う。
■山下亀三郎の生い立ち
亀三郎は1867年(慶応3年)、当時の伊予国宇和郡喜佐方村、現在の宇和島市吉田町喜佐方村に生を受けます。庄屋の息子として厳しく育てられ、現在の宇和島東高校に入学しますが、中退して家出をしてしまいます。知人宅に居候していたところ、母親から「男子がいったん村を逃げて出て、おめおめ村へ帰ってくるようなことがあってはならない。大手を振って村の道が歩いて帰れるようになるまで帰ってくるな」との手紙をもらい、四国を出る決心をしました。
■不遇時代に抱いた夢
その後は、京都で働きながら勉学を進め、さらに東京で現在の明治大学に入学。製紙会社や貿易商社に勤めるものの会社は倒産。ついには自ら洋紙売買の商売を始めるも、これも上手く行かずすぐに店をたたむことに。ようやく最後に入社した竹内兄弟商会の石炭部で、日清戦争の特需に沸いていた海運業に初めて触れることになりました。そして1896年、横浜港から日本郵船の土佐丸が初めてのヨーロッパ航路に出発する汽笛を聞き、自分の手で日本とアメリカやヨーロッパをつなぐ夢を抱いたと言われています。
■船主誕生
翌1897年(明治3年)、亀三郎は竹内兄弟商会石炭部を譲渡されついに企業として独立。横浜石炭商会としてスタートを切りました。そして1903年、着々と商売を軌道に乗せた亀三郎は、いよいよ年来の目標であった海運業に乗り出します。東奔西走して現在のみずほ銀行にあたる第一銀行横浜支店や保険会社の支援を得て12万円(現在の価値にして約2億円!)を調達。約2400トンの英国船を購入して、「喜佐方丸」と命名しました。故郷の村の名前を付けるあたり、母親の厳しい言葉を胸に刻んでいたのかもしれません。
■戦争と飛躍
船主となってすぐに亀三郎に大きなチャンスが訪れます。同郷の海軍少佐・秋山真之とのつながりから日露戦争が避けられないとの情報を得て、喜佐方丸を海軍の徴用船※として提供することに奔走し、1903年末にこれを実現。徴用船は通常の傭船よりかなり価格が高いため、商売としては十分な利益を得ることになりました。加えて、翌1904年には2隻目の船を購入してそのまま徴用船として提供することによりその規模を拡大していきます。
※徴用船:海軍が戦争時に民間から借り上げた船舶。戦争時は一日でも早く、多くの艦艇が必要となるので、民間船(商船・貨物船・漁船等)を借り上げ、それを改造・武装することによって、最前線以外での戦闘・哨戒・輸送等に従事する艦艇に仕立て上げた。
■世界有数の不定期船オペレーター
日露戦争後は日本全体が深刻な戦後不況に見舞われたため亀三郎のビジネスも停滞を余儀なくされますが、1909年以降は外航海運が好況となり、山下汽船(現・商船三井)、扶桑海上保険(現・三井住友海上)、浦賀船渠(現・住友重工)を設立するなど海運事業をより一層発展させていくことになります。さらに1914年には第一次世界大戦が勃発したことで世界中の海運業が活性化。用船料が10倍以上、船価は100倍にも上る高騰ぶりでした。勢い、亀三郎と山下汽船も業績を急拡大し、日本最大の不定期船オペレーターとなりました。それどころか世界を代表する不定期船オペレーターの地位を築いたのです。
1938年(昭和13年)当時の不定期船オペレーターの支配船腹量
社名 | 社船及び受託船 | 傭船 | 合計 |
山下汽船 | 350,000トン | 500,000トン | 850,000トン |
川崎汽船 | 250,000トン | 350,000トン | 600,000トン |
三井物産船舶部 | 400,000トン | 350,000トン | 750,000トン |
大同海運 | 150,000トン | 450,000トン | 600,000トン |
国際汽船 | 250,000トン | 100,000トン | 350,000トン |
計 | 1,400,000トン | 1,750,000トン | 3,150,000トン |
1941年(昭和16年)当時の日本の総船腹量1962隻の内訳
社名 | 船腹量 |
日本郵船 | 133隻 |
大阪商船 | 109隻 |
山下汽船 | 55隻 |
大連汽船 | 54隻 |
川崎汽船 | 35隻 |
三井物産船舶部 | 32隻 |
■地域貢献
若くして故郷・吉田/宇和島を離れた亀三郎でしたが、自伝で自ら語るくらい郷土を想う気持ちは人一倍のものでした。また、「自分が少しでも国家の役に立てる人間になれたのは母のおかげである」として人材育成、特に女性の教育に力を注ぎました。ビジネスで成功した亀三郎はその想いを実際に行動に移していきます。亀三郎が吉田町のために私財を投じた主な事業は以下のとおりです。
・喜佐方小学校 基本財産、敷地買収費を寄付
・喜佐方村図書館 建築費を寄付
・筋道路及び筋防波堤 喜佐方から筋への道路及び筋港の防波堤建設費を寄付
・奥南運河 改修工事費用を寄付
・山下実科高等女学校 現在の吉田高校の前身となる女学校を設立
・第二山下実科高等女学校 現在の三瓶高校の前身となる女学校を設立
・町立吉田病院 建設費用を寄付、医師を紹介
・町立吉田中学校 現在の吉田高校の前身となる中学校を設立
・喜佐方トンネル 立間に直通できるトンネル工事費を寄付
現代にも連なる数々の大企業の設立、不定期船オペレーターとしての世界的な成功。そして生まれ故郷への多大なる地域貢献。とても一人の人間が一代で成した功績とは思えませんが、その原動力が一人の少年の夢の力だとしたら、改めて夢や目標を持つことの意味を考えたくなります。
当社としてもいつまでも夢を大切に、そして地域への貢献を胸に、「船と明日」を創造する企業でありたいと思います。
<参考文献>
鎌倉啓三「山下亀三郎『沈みつ浮きつ』の生涯」近代文芸社(1996年)
青山淳平「海運王 山下亀三郎~山下汽船創業者の不屈の生涯」光人社(2011)
宮本しげる「トランパー 伊予吉田の海運偉人伝」愛媛新聞サービスセンター(2016)
宇和島信用金庫「つなぐ 夏号 No.3」(2018年)
田村茂「海、船、そして海運―わが国の海運とともに歩んだ山縣記念財団の70年―」一般財団法人山縣記念財団(2012年)