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2020年04月21日

【造船海運コラム】 #1 前原巧山~純国産の蒸気船は宇和島生まれ?~

 造船や海運に関するちょっとした情報をお届けする造船海運コラムをスタートいたします。第1回は「前原巧山」です。皆さんあまりご存じないでしょうが、一体何者なのでしょうか?


日本の転換点

 近代日本がいつ生まれたか、と聞かれて皆さんは何と答えるでしょうか?

 幕末から明治にかけての出来事でいくらでも侯補が出てきそうですが、1853年の黒船来航をトピックスに挙げる人は多いかもしれません。当時の人々が黒船来航の何に驚いたかというと、船のサイズや砲門の数はもちろんですが、それらを走らせる蒸気機関に他なりませんでした。

 歴史の授業で学ぶ通り、江戸時代の日本は大船の建造と人々の出入国を禁じた鎖国状態であり、鉄の船が海に浮かぶとも、それを蒸気で走らせるとも考えたことすらなかったでしょう。

 その大船建造令が撤廃されたのが1853年、鎖国が廃止されたのが翌1854年の日米和親条約であったことを考えれば、やはり黒船来航が大きな転換点だったのは間違いありません。

開明的な藩主たち

 ただ、当時の日本のトップ層、具体的に言えば幕府の閣僚や大きな藩の藩主まで無知だったかというとそうでもなかったようです。欧米諸国の拡張政策にともなって1800年前後からは日本への訪問・接触も増えていましたし、実際に開国要求も受けていました。海防の観点からさまざまな事業にも取り組んでおり、蒸気船の存在はもちろん黒船来航についてもオランダを通じて事前にその情報をキャッチしていました。

 そんななか、開明的な藩主たちは黒船来航の以前から大型艦船や蒸気機関の開発を計画していたのです。御三家として幕府を支える水戸藩の徳川斉昭侯、琉球に支配権を持つ薩摩藩の島津斉彬侯、長崎を警備する佐賀藩の鍋島直正侯、そしてなぜか四国の小さな宇和島藩の伊達宗城侯が。

宇和島藩の蒸気船開発計画

 伊達宗城侯は1844年に藩主の座に就くと産業の振興と軍備の増強を推し進めるため、蘭学者の高野長英を招聘して藩士を教育するとともに、軍事研究を行っています。1849年の高野長英から宇和島藩士への手紙の中には「洋式艦船の件はどうなりましたか?」との問合せがあり、黒船来航の5年前にはすでに計画・研究を進めていたことが窺い知れます。

 しかし知識も情報もないこと、長州から村田蔵六(のちの大村益次郎)を招聘したり、薩摩藩へ藩士を視察に向かわせるなど、研究や設計には目途が立ったものの、肝心の蒸気機関の製作ができる現場の技術者が見当たりません。そこで宇和島藩では商家や庄屋を通じて藩内に広く心当たりの人物を探すよう依頼しました。そして白羽の矢が立ったのが、城下でも評判の器用者・嘉蔵(のちに前原巧山と改名)でした。

前原巧山肖像

前原巧山肖像(写真提供:宇和島市)

 

建造事業のスタート

 嘉蔵が生まれたのは1812年、現在の八幡浜でした。父は小さな商売を営んでおり、幼いころから大阪や宮崎、そしてまた八幡浜と転々としています。父の死後、20歳で家業を継ぎますが仕事も家庭もあまりうまくいかなかったようで、23歳の時には大阪に出て刀飾りの職人として修業をはじめます。その後、宇和島に落ち着いてからは、かんざし・提灯・人形などの細工物、木工や彫金の手仕事、さらには仏像の彫刻や鎧兜の製作・修繕までも仕事としたそうです。さながら現在の便利屋・何でも屋の様相ですが、多種多様な技術を身につけたのがその後に生きたのかもしれません。

 そして嘉蔵にも蒸気船建造の声がかかるのが1854年、42歳の時でした。蒸気機関はおろか造船の知識もなかった嘉蔵は初めこそ「ご冗談を…」と断っていましたが、そのうちに外輪による推進方法の省力化を思いつき、小型の模型を製作しました。それが藩主伊達宗城侯の目に留まり、藩の造船所でテストをするよう指示が下りたのです。1か月も経たないうちに小舟でのテストが成功し、嘉蔵は正式に藩に雇用され、蒸気船建造がスタートすることになりました。

3度の長崎留学

 嘉蔵の最初の仕事は蒸気船建造方法の研究であり、そのための長崎への留学でした。1回目は山本物次郎や吉雄圭斉ら先達の知遇を得ますが、具体的な技術習得については思うに任せずいったん帰国。オランダの軍艦や蒸気船が来るタイミングで2回目の長崎行き。この時は山本の家来になりすましてまで毎日出島へ行き、オランダ船の蒸気機関の整備や取り付けの様子を写し取り作図したといいます。同時にブリキや手榴弾、雷管の製法も学び取ったそうです。

 3回目の長崎留学は幕府の許可が出たこともあり、他藩の留学生も多く、オランダ側も機械の名称・取り扱い・製造方法などを教える実り多いものでした。1年間で3度も長崎に留学し、船以外にも洋式砲台の構築法や築城法、反射炉なども研究して図面に起こすなど、藩にとっても嘉蔵にとっても蒸気船建造への足場を固める重要な時間でした。

嘉蔵の苦悩と奮闘

 1855年中に蒸気機関の木製ひな型を完成させた嘉蔵は、翌1856年から本格的な蒸気船建造をスタートさせます。しかし実際の製造となるとなかなか図面通りにはいきません。1857年に作り上げた蒸気機関は実験に失敗しています。原因はボイラーの材質で、嘉蔵は銅板で製作するよう主張していましたが周囲の職人の反対は強く、鋳造で作られた釜は蒸気漏れがひどく使い物にならなかったそうです。この実験の失敗を見て、「蒸気で車輪を回すなんて嘉蔵ごときにできるはずがない、もしできたら自分の耳や鼻を削いでやる」と言う者まで出る始末でした。

 改めて研究の不足を痛感した嘉蔵たちは既に蒸気船建造を成功させた薩摩藩に技術習得のために赴きます。翌1858年に宇和島に戻った嘉蔵はボイラーの改造に着手。銅板も大阪から取り寄せ、これまでの研究成果を結集して製造を進め、ようやく年末に陸上での試運転が成功し蒸気船建造のめどがつきました。そうして1859年の新年早々から船体への蒸気機関搭載を進めると、2月に宇和島湾内での航行を果たし、4月には参勤交代で帰国する伊達宗城侯を佐多岬沖で出迎えることに成功したのでした。

天保禄マシー子図

天保禄マシー子図:後にオランダ人ボードインから購入した艦船「天保禄」の機関を前原巧山が写し取った図。残念ながら最初の蒸気船の図面は現存していない。(写真:(公財)宇和島伊達文化保存会所蔵)

 

事業の評価

 蒸気船の建造自体は薩摩藩に先を越されて日本で2番目となりましたが、外国人の手を借りず日本人だけで建造した純国産蒸気船としては第1号という説もあります。それでなくとも、薩摩藩72万石、水戸藩35万石、佐賀藩35万石という当時の藩ランキングベスト10を占める相手を向こうに回して、たかだか10万石の小藩が最新の事業を成功させたのですから、痛快というほかありません。宇和島びいきで知られる作家の司馬遼太郎氏もこのことをして、「この時代に宇和島藩で蒸気機関を作ったのは、現在の宇和島市で人工衛星を打上げたのに匹敵する」と述べています。

 設計・製造の責任者であった嘉蔵自身の卓越した技術と探求心が事業の推進力だったのは間違いありませんが、当時の社会情勢から正確な情報を得て蒸気船建造を着想した藩主の判断力や、必要な組織と環境を整え現場を支えた武士層、そして現場の作業にあたった船大工ら職人たち、それぞれの力の結集がなければ実現できなかったのは間違いないでしょう。現代で言えば、経営者、管理職、設計、現場がそれぞれの想いを一つにつないで実現した見事な成功事例と言えるのではないでしょうか。

 当社もこの宇和島の地で船造りに携わる企業として、先人の偉業に恥じぬよう、新しい物への探求心と発想力を磨きながら、「船と未来」を創造しつづけたいと思います。


参考文献
兵頭賢一「造船史上に於ける前原巧山翁の功績」,『宇和島郷土叢書』第3巻,宇和島市立図書館(1958年)
三好昌文「前原巧山」,『愛媛の先覚者2―科学技術の先覚者―』宇和島市教育委員会(1965年)
宇和島・吉田旧記刊行会「前原巧山一代噺」,『宇和島・吉田旧記』第5巻,佐川印刷(1997年)

参考リンク
宇和島市指定 前原巧山の墓
https://www.city.uwajima.ehime.jp/site/sizen-bunka/119maebara.html
伊達博物館ブログ 伊達の黒船
http://datehaku.blogspot.com/2012/04/blog-post_30.html#more
伊達博物館ブログ 伊達の黒船 その2
http://datehaku.blogspot.com/2012/05/blog-post_21.html

 

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